豆柴を解説するにあたり、基礎知識として柴犬の歴史を押さえておきましょう。
■柴犬苦難の歴史
柴犬は日本固有の犬種であり、天然記念物:日本犬の範疇です。
戦争中から戦後にかけて柴犬含めて日本犬はほとんどの犬種が絶滅しかけておりました。理由は食料難、毛皮への転用、余裕がない等…。愛犬を飼って愛でるという世相ではない時代です。
当時の日本犬の一犬種だった"越の犬"は昭和9年に天然記念物に指定されて保護されたものの、第二次世界大戦によりほぼ残らず、努力の甲斐も実らずに絶滅してしまったほどです。
柴犬も絶滅の危機感を強く持った日本犬保存会の有志の手により、民家や山奥まで全国津々浦々探して、柴犬らしい犬を少数探し出しました。そこから交雑が疑われるもの、容姿が基準にみたないもの、大きさが規定に満たないもの等を除外し、残った優良犬をもとに近親交配を行った結果、昭和23年に中号が誕生しました。
中号は現代の柴犬の基礎犬になった名犬中の名犬です。中号により数を増やして今の柴犬があります。なので、どの柴犬でも祖先をたどるとほぼ中号に行き着くということです。柴犬の英雄・始祖というところでしょうか。中号は生後四か月にジステンパー(現代でも発病すれば非常に危険な疾患)にかかってしまい、樋田夫妻により三か月の不眠の手当により奇跡的に一命を取り留めたという壮絶な過去があるそうです。もし、この時に命を落としたり、深刻な後遺症が残ってしまったら、今の柴犬はなかったのではないかという意見もある程です。
回復後の中号は紅子号と再度交配(極近親交配)して中市号等を設け、5頭の大臣賞を生みました。そして、全国に中号の血が広まりました。当時の展覧会において、上位入賞は中号の血が入った柴犬ばかりであったようです。
こうして柴犬は、中号の大活躍により絶滅の危機から脱却して今の繁栄があります。中号と柴犬の絶滅の危機を乗り越えた先人の皆様には感謝してもしきれません。近年では減少傾向であるものの、年間数万頭(日本犬保存会)生れており、各地で展覧会がひらかれております。
※参考資料 柴犬 愛犬の友〈犬種別〉シリーズ 柴犬<飼い方のすべて>、往古日本犬写真集 岡田睦夫著 ISBN4-4166-70243-4
※コロ号の写真も残っていますが、すごみを感じさせる黒毛のメスで今見ても素晴らしさが感じられます。黒毛の始祖か。
■中号の活躍についての私見
20年以上ブリーディングしている経験でわかります。
見た目、中身が良くて、交配も旺盛で、良い子を出す。
これは非常に難しい注文であることを。
まして、昭和初期の時代背景を推測するに、当時の愛犬家の努力と情熱に加え、奇跡的なことが続いて柴犬が増えていったのだと理解しております。
■大江戸小町代表の父親が飼っていた当時の犬
私の父親は昭和一桁生まれ。アニメ:ルパン三世の銭形刑事と同年代といえばなんとなく分かり易いでしょうか。九州の片田舎で生れ育った父親でした。当時はサイダーの販売の家業がうまくいっていたようで、かなり恵まれた家庭だったと聞いております(その後事業失敗で転落)。父は少年時代から犬が大好きでした。犬を飼うこと自体、世の流れと逆らった行為でしたが、最初は純血種であるシェパードを飼っていました。それには飽き足らず、日本犬を飼いたいという大きな夢がありました。当時の日本犬は幻の犬と言われていた時代です。九州の田舎で日本犬が簡単に入手できる訳がありません。当時は犬屋といわれていた怪しげな業者から'日本犬'を数頭譲り受けたものの、大きくなってみると耳は寝ていて、お顔も図鑑?に載っている日本犬とは似ても似つかぬものに成長したようです。それでもまだ見たこともない'日本犬'を育てたい少年は、大胆な行動にでました。なんと、東京から'日本犬'と呼ばれた'成犬'を取り寄せたのです。その写真が残っていますので紹介します。父親の永遠の愛犬となった十郎くんです。
知識と経験豊富な先輩ブリーダーにこの写真をみせたところ、紀州犬の系譜ではないか、との見解です。この写真は昭和23年時の時です。ちょうど中号が生まれた年で、なんだか奇妙な偶然を感じてしまいます。
晩年の十郎と親戚さんの2ショット
これは、従兄と一緒に写っている晩年の十郎くんです。背景から察すると、昭和20年代後期頃ではないかと推測します。この時代、ペットと共に写真を取るのは、普通のことだったのでしょうか。今頃、十郎くんは父親と一緒に仲良く安らかに過ごしていることと思います。
余談ですが、私が犬(猫)好きでブリーディングの道に進んだのは、父親の影響が強いのです。犬に関する数々の逸話を少年時代からよく聞かされて育ちました。猫も好きなのは母親の影響です。